玉ねぎカフェ

文学作品の一節を引いたりしながら、私が社会について考えていることを綴っていきます。引用魔ですので。

探偵とパノラマに関する覚書3

シャーロック・ホームズが「最後の事件」で失踪し,「空き家の冒険」において復活を遂げるまでの間に,アーサー・コナン・ドイルは『バスカヴィル家の犬』という長篇のホームズ物語を書き上げている。この作品はホームズ物語の中でも最も知名度が高く,特に成功を収めたものであるが,探偵小説としての位置づけから大きく逸脱したものである。それはただ単に,事件の舞台がロンドンのベイカー街ではないことが理由ではない(ベイカー街が舞台とならないホームズ物語は少なからずある)。『バスカヴィル家の犬』という作品が,その他のホームズ譚のように都市の幻像をよりどころにしているのではなくて,自然の神話的諸相が生み出す幻像をよりどころにしているからである。

ヴァルター・ベンヤミンの「ゲーテの『親和力』」という評論において,『親和力』という作品における神話的な力学の存在が語られる。それは近代的でない(つまり,人間の自由な意志によらない)規約の力であり,人間の力が及ばない自然の力である。それらは彼の後の議論からすれば,「運命」という概念に集約されていく。そして,その運命の対概念が「性格」であって,ベンヤミンは『親和力』の登場人物の「性格」の欠如を指摘する。この登場人物たちの「性格」の欠如が,「運命」が物語を跋扈していく大きな要因となる。

『バスカヴィル家の犬』にはそのような神話的諸力が物語の基盤となっている。バスカヴィル家にまつわる魔犬伝説がその家の当主の不幸な運命を示しているのは当然として,物語の舞台となるダートムアの地は都市の文明とはかけ離れた古代的な様相を色濃く残している。森林と荒野に囲まれたバスカヴィル館,不毛なムアの土地,古代人が暮したという石の住居跡,極めつけは物語の主犯さえも飲み込んだ底なし沼と濃霧。これらの背景はワトスン医師とサー・ヘンリー・バスカヴィルが,ロンドンの街からバスカヴィル館に向かう道程において,少しずつ物語を侵食していく。


馬車は脇道に入り,何百年もの馬車の往来で轍が深く刻まれた,くねくねした小道を登っていった。その両側は盛り上がった土手で,湿ったコケや,シダがびっしりと覆っていた。褐色に変色したワラビやまだら模様のイバラが夕日の中で光っていた。さらに登っていき,今度は,狭い花崗岩の橋を渡ると,大きな,灰色の岩石のあいだを泡をたてて轟々と流れる急流に出た。馬車はこの道に沿って登っていった。小道も川も,オークやモミが密集する谷間をうねうねと続いた。山道を曲がるたびに,バスカヴィルは歓声を上げ,辺りの景色に見入ったかと思うと,次には答えきれないほど多くの質問を浴びせかけた。彼の目には,すべてが美しく映ったようであるが,晩秋の訪れが明らかに感じられるこの光景に,わたしは,うつうつとしたものを感じないわけにはいかなかった。黄色い落ち葉が小道につもり,通っていくわたしたちの上にはらはらと降りかかった。車輪のガタガタという音さえも降りつもった古い枯葉に打ち消された。バスカヴィルの新しい当主へ,大自然はなんと寂しい贈物をするのであろうか。
C.ドイル『バスカヴィル家の犬』河出書房新社


サー・バスカヴィルは既に神話の魔力に囚われている。

この物語には当のホームズが登場するシーンが非常に少ない。それは彼自身が,物語が支配する諸力に対して疎遠であるからにほかならない。コナン・ドイルは彼の探偵を論理的かつ機械的な理性の権化として規定していたことを思い起こせば,彼がこの世界にとって,観察者としても登場人物としても不適当であることは一目瞭然だろう。物語を高めているのは自然のもつ昔からの幻像であって,ホームズの領分である都市的な幻像ではない(この幻像には本来的に大きな差はないのだが,やはり共存は難しいのだ)。ただし,大自然のパノラマはこのホームズをもって非常に印象的な画像を映し出している。それは神話的諸力に目を慣らされたワトスン医師の想像力がなせる業であることを差し引いても,興味深い場面である。


これ以上追跡を続けても無駄だとあきらめたぼくたちは,石から腰を上げ,いま来た道を戻って帰路についたのだが,まさにこの時,突然予期もしない奇怪なことがおきたのだ。月はぼくたちの右手の低いところにあり,花崗岩の岩山の鋭く尖ったトアが,銀色の丸い月の下側に突き刺さるようにそびえていた。ちょうどそのトアに,輝く月を背に,黒檀の彫像のような輪郭を浮かび上がらせている男の姿があったのだ。ホームズ,これをぼくの妄想だと言わないでほしい。この時の見え方は,これほどはっきりと見えたためしはないというほどはっきりしている。ぼくが見たところでは,その姿はほっそりと背の高い男だ。足を少し広げ,手を組み,頭は垂れて,目の前に広がる泥炭と花崗岩の広い荒野を眺めながら物思いにふけってただすんでいるようにみえた。もしや,この恐ろしい地に住む地霊ではないか。(……)驚いて叫びをあげ,準男爵に彼を指し示そうと腕を取ったとたんに,その男の姿は消えた。見ると,花崗岩のとがった頂きは相変わらず,月の下の部分にかかっていて,そこには微動だにせず,静かに立ちつくしていたその姿は影も形もなかった。
(同上)

以上