玉ねぎカフェ

文学作品の一節を引いたりしながら、私が社会について考えていることを綴っていきます。引用魔ですので。

探偵とパノラマに関する覚書2

パノラマ空間というのは,観察者の周囲を円筒状に取り囲み,観察者はその円筒状のスクリーンに映し出された映像を見ることで成立する。絵画において,観察者が縁取られた画像を外側から眺めるのとは異なり,パノラマ空間では映し出された画像と観察者を隔てる境界が見た目上存在しない。観察者は自然の中にいるように自然を観察することができ,都市の中にいるように街の風景を観察することができる,そういう擬似的な一体的空間を作り出すことがパノラマ画像の設計思想である。絵画に代表される遠近法画像において,私たち観察者が観察対象である風景と隔絶されているという疎外状態から,パノラマ画像は私たちを救い出してくれるように思われる。そう,あくまで「思われる」だけであって,パノラマ空間の中で私たちは,一層風景と自分が分け隔てられたものであることを経験する。その孤独な姿の一類型が大都市に揺籃期に多く生み出されることになった探偵たちである。

探偵小説における探偵は,物語の中で物語の登場人物として発生した(難)事件に直に関わる。彼は事件現場に立会い,事件の関係者と直接会話し,事件を巡る様々な舞台装置を入念に調べ上げることで,事件の犯人を追跡する。しかし,彼は事件の当事者であることはない。探偵は物語の中で物語の人物として振舞っているように見えるにしても,彼はあくまで容疑者でもなく,被害者でもなく,事件の真相には何の関わりもない観察者であるに過ぎない。ただ,彼は理想化されたパノラマ空間である事件現場において,風景と同化しつつ,常に外側の人間として,傍観者として,追跡者として振舞うことができる。

パノラマの魔術は絵画のそれよりもずっと複雑で,自家撞着を含んでいる。絵画においては,私たちは外部からの観察者であり,観察対象たる描かれた風景や人物から遠ざけられたままである。それは対象との隔絶と疎外を意味するかもしれないが,私たちはそれを寂しく思いつつも,受け入れざるを得ない現実として受け止めることができる。しかし,パノラマは異なる。パノラマは対象と同化したいという私たちの憧れから生まれた特殊な空間を創りだす装置であって,それを擬似的に叶えようとする道具である。観察者が観察対象と同一のものとなりつつ,観察者であり続けることはある種の幻像であり,無味乾燥な言葉で言えば,錯覚に過ぎない。パノラマ空間において,観察者は夢幻の中で覚醒し,疎外者としての自らを認識する。それは禁忌を犯す先触れとなる。その禁忌を端的に示しているのが,「鏡地獄」だ。乱歩のこの小説の中で,鏡に魅せられた男は360度鏡を張り巡らせた球体を作り上げ,その中で自分自身を全ての方角から観察しようと試みる。すなわち,観察者自身が観察者を観察対象とする。これは破局である。球体の鏡はパノラマ空間の観察者を「裏返し」にしてしまう。球体の鏡が実際に人を狂わすような作用を及ぼすわけではないが,乱歩が描いた男の狂気はパノラマ空間がかもし出す幻像の矛盾を見事に突いているといえる。

したがって,探偵小説において,探偵自身が事件の当事者になる場合には,混乱と矛盾と破局が生じる。探偵は被害者にはならない,犯人になってはいけないのは当然としても(そういう叙述トリックが生まれるのは,パノラマ的探偵が存在意義を失って以降の話だ),事件の関係者として登場すること自体,探偵小説が創りだすパノラマ空間のかりそめの調和を破壊する契機となる。
シャーロック・ホームズ譚において,ホームズ自身が事件の当事者となるエピソードは非常に少ない。その中でも,上述の探偵の禁忌を如実に示しているのが,「最後の事件」である。「最後の事件」において,ホームズは単なる事件の追跡者ではない。彼は命を狙われる当事者であり,事件の核心の中にいる重要参考人である,というのは,この物語がホームズとモリアーティ教授の対決に主眼が置かれているからである。本来,事件の観察者という立場にあるはずの探偵が,事件にスポットを浴びせられたとき,彼がライヘンバッハの滝に落ちていくのは必然であった。探偵が探偵を観察し,追跡する物語は,先の「鏡地獄」のより都市的な変奏に過ぎない。

そして,死んだと思われたホームズが劇的な復活を遂げるのは,ひとえに熱烈なファンの声や作者ドイルの胸先三寸によるものとはいえない。アーサー・コナン・ドイルは少なくとも物語の中で,一つの予防線を張り,一つの通過儀礼を行うことによって,探偵を復活させる,すなわち,探偵小説の幻像を再び生み出すのである。予防線とは物語の語り手の存在である。ホームズ譚は基本的にホームズによって語られるのではなく,彼の傍らにいるワトスン医師によって語られる。ホームズは決してパノラマ空間の孤独な観察者ではなくて,常にもう一つの目によって観察されている。ワトスンの存在が,探偵自身がパノラマ空間の禁忌を犯したとき,シャーロック・ホームズ物語という探偵小説が不完全なパノラマ空間であったことを祝福するのである。ホームズが死ななかったのは,ひとえにワトスン医師の功績と言っても過言ではないだろう。さらに,ホームズ自身がこのチャンスを見事にものにしている。

それは,彼の復活の舞台である「空き家の冒険」において,ホームズ自身が自らの蝋人形を身代わりにすることで,命を狙われる自分自身を事件の当事者としての存在から分離した。ベイカー街の彼のオフィスでセバスチャン・モラン大佐の凶弾がホームズの蝋人形の頭を撃ち抜いたとき,ホームズは再びパノラマの幻像を取りもどしたのである。
ただし,これ以降のホームズが,理想的な都市の幻像ではなくなっているのも,きっと真実なのだろう。