玉ねぎカフェ

文学作品の一節を引いたりしながら、私が社会について考えていることを綴っていきます。引用魔ですので。

探偵とパノラマに関する覚書

「ふるさとへ帰る」というのはどういうことだろうか。関東の生まれで,今も関東に住んでいる私にとって,ふるさとが持っている「遥けさ」のイメージは文字どおり私自身の感覚にとって非常に遠いものだ。子どものころ,夏休みや冬休みの前に「田舎のじーちゃんとばーちゃんのところに行く」という同級生の言葉が理解できなかった。自分の田舎とはどこだろう?父方の実家は歩いて数分のところにあった。
大人になってからは,子どもの頃には全く感じなかったふるさとの感覚が,つまり「遥けさ」が私自身にも生まれるようになった。それは両親と住んでいないという単純な事情からではなくて,悠々と実家に住んでいたときでさえもやはり感じるようになった「遥けさ」がある。それは,かつての自分がいる風景としてのふるさとが,ある一つの額縁に飾られた絵画のように見え始めたことと関係があるのかもしれない。私は自分の姿が描かれた絵を見ているのだけれども,描かれた自分は観察している自分と一体ではない。タイムトラベルは楽しいけれど,大好きな絵の中に閉じ込められはしないのだ。

ところで,ふるさとをふるさとと感じる原因が,「遥けさ」,言い換えると,自分がふるさとから(物理的に,あるいは精神的にも)離れているという感覚であるとしたら,都市にはそういう感覚を奪う効果がある。それはふるさとが絵画で例えられるとして,都市は絵画とは違ったイメージを提供するからかもしれない。
額縁に縁取られた絵画というのはデカルト式遠近法画像のモデルである。遠近法画像において,私たちはある限定された世界をその世界の外側から認める。この「外側」というものがふるさとの「遥けさ」を形成するのだとすれば,そのことは私たち自身が既にふるさとから(物理的にも,そして精神的にも)遠く離れてしまったことを示していることになる。そして,ふるさとがかくも懐かしく,美しいものとして映るのは,デカルト式の統覚が絵画の領分であるからといえるのかもしれない。統覚によって,物事を整理し,均整の取れたものとして捉えるという啓蒙時代初期の哲学の名残は,私たちがとっくに巣立ってしまったふるさとの姿の写し絵にも見える。(想い出はとても美しく,そして素晴らしい力を持っている)
ふるさとから都市に出てきた若者が感じる孤独感,寂しさというものが,疎外された観察者という遠近法画像の観察者の孤独とオーバーラップするとすれば,観察対象の中心に立つというパノラマ画像の発達が都市を揺籃としていたこともうなずける。都市の一部として都市を観察するという感覚が,孤独な都市の住人の慰めとなるのだ。だから,前述したとおり,都市には「遥けさ」という感覚とは無縁である。

そして,パノラマ画像の観察者としてとっておきの存在が初期の探偵,シャーロック・ホームズで頂点を迎えた我らの孤独な遊歩者たちであるといえるだろう。