玉ねぎカフェ

文学作品の一節を引いたりしながら、私が社会について考えていることを綴っていきます。引用魔ですので。

『ナジャ』、あるいは自動生成する物語

「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう。」


私たちの読書は言葉に囚われている。それは一見とても当たり前のことで、疑問をさしはさむ余地はないように思われる。『ナジャ』が私に投げかけてきた問いは、私が長年覚えていた読書の問題を改めて浮き彫りにするものだった。
読書において、私たちは(あえて私たちとする)言葉を追う。意味を追う。作者の意図を追う。私は果たして誰を追っているのか?『ナジャ』には制約がない。『ナジャ』において意味は無力だ。

「わたしの呼吸がとまると、それがあなたの呼吸のはじまり。」
「あなたが望むなら、わたしはあなたにとってなんでもないものに、それとも足跡だけのものになるでしょう」

ナジャの言葉を字義通りに捉えて何のことがあろう。ナジャという女性についての情報はいくらでもある。実在した女性で、作者ブルトンの心を震わせた女性で、精神病院へ収容されたレオナという女性。訳者がいくら詳細に解説や注を付したところで『ナジャ』の読書は確定しない。最後には、言葉という瓦礫を前にして私は途方に暮れる。いや、『ナジャ』には言葉があり、文字があり、絵があり、写真がある。それはあらゆる手掛かりであるのだが、それが私たちに共通のゴールを、唯一無比な解釈を与えてくれることは決してない。物語はオープンなまま、自由で覚束ない。ブルトンもまた、40年後に「遅れた至急報」を書いたのだ。ブルトンがもし永遠に生きているとしたら、『ナジャ』はいくらでも至急報を送り続けるだろう。彼にとって、過去のすべてと現在の何某かの一切合切が「合図」となって、『ナジャ』の契機を作り上げる。『ナジャ』は変化を続ける。作者の意図とは関係なく、作者を操るように、痙攣的に、非線形フラクタルを描き続ける。

作者というメディアがなくなった今、彼女の物語は読者の中で痙攣的に生成し続ける。
「私は誰か?」

誰がいるのか?あなたなのか、ナジャ?あの世が、あの世のすべてがこの人生のなかにあるというのは本当か?私にはあなたのいうことが聞こえない。誰がいるのか?私ひとりなのか?これは私自身なのか?

狂おしいくらいに、自由な読書が私の前に横たわっている。