玉ねぎカフェ

文学作品の一節を引いたりしながら、私が社会について考えていることを綴っていきます。引用魔ですので。

笑いの大學

皆さまは、文部科学省が実務教育に特化した「新たな高等教育機関の設立」を推し進めようとしていることはご存知でしょうか。私も5、6年前からこの件を小耳にはさむようになり、まさか本気で進めるつもりだとは考えておりませんでしたが、お国は本気のようです。
次のような中教審の答申があります。


平成28年05月30日
個人の能力と可能性を開花させ、全員参加による課題解決社会を実現するための教育の多様化と質保証の在り方について(答申)(中教審第193号)


中教審文部科学省の諮問機関であり、実際に政策を決定する権限はありませんが、この審議会が持つ教育政策への影響力は絶大です。中教審の答申を追うだけで向こう10年くらいの政策の方向性を占うことができます。国は教育政策をコロコロ変えているように見えても、案外、中・長期的な展望を持って着々と世論と政策を誘導しているのです。殊に保守的な高等教育については、私が高等教育界隈で仕事をするようになって早10年、ほぼ一貫した方向性のもとでお国は各施策を実行してきています。私の感覚だと高等教育政策はここ20年くらい毎年同じことが、まるで『ボレロ』のように変奏とオーケストレーションの重厚さを増しながら、繰り返されているという印象です。

さて、件の答申は2部構成となっていて、最初の部分がまさにその「新たな高等教育機関の設立」に割かれています。それは「こうこうこういう理由で設立すべきだ」という理念的な話ではまったくなくて、養成する具体的な人材像や教育課程、設置審査のありかたまで言及しています。私はいくつかの実際的な理由で、件の高等教育機関の設立は一筋縄ではいかないと思っています。そして、二つの、これも実際的な理由(私は理念や理想を持ち合わせない人間だとかねてから主張しております)から反対の立場でした。

そう「反対だった」のです。これは別にお国の政策に賛意を示しているのではなくて、私自身の反対理由が浅はかだったかもしれないと反省しておるのです。私はこう考えていました。

一つめの理由、新たな形態の学校の設置は、天下り先が細っている文科官僚の権益と再就職先の確保につながりかねないということ。これは昨今の文科省の不祥事を挙げるまでもなく、なんともあり得そうなことです。とりわけ、大学を初めとする高等教育を所管する高等教育局は権益の少ない、弱い部局です。文科省の場合、出世コースは義務教育を所管する初等中等教育局であって、高等教育局あがりの事務次官は私の知る限り(といってもあまりしらないですが笑)おりません。文科官僚の明るい人生設計にとって「新たな高等教育機関の設立」は願ったりかなったり、神の恩寵に相違ありません。昨今のトレンドからすれば、行政権と行政コストの膨張は時代に逆行することにほかなりませんし、これらの点では賛成し難いのは理解していただけるでしょう。

そして、二つめの理由です。もし、この政策が実現した場合、結局のところ、専門学校からの改組が相次ぐだけで、苦境が続く専門学校業界の救済と安易な「準大学」の増加につながり、今まで以上に学士さまが粗製生産されるに過ぎないのではないかという疑念です。件の答申でも海外における実務系学校の高等教育機関化の例が挙げられています。たとえば、ドイツではHochshule(「実業高等学校」と訳されることが多いです)と大学の学位制度を一つにして、現地語(つまりドイツ語)で海外の人には馴染み薄い学位名を英語のBachelorとすることに変更されました。また、これは答申の例ではありませんが、海のちょっと先の台湾では大学のほかに科学技術大学なるものが設定され、大学と同等の高等教育機関とみなされています。日本でも専門学校に箔をつける政策がかなり実施されてきました。たとえば、専門士や高度専門士という称号を与え、大学や大学院への進学を有利にしたりとか、高度専門課程の認定によって高度な実務教育を行う課程の整備を進めたりとかです。海外の事例の功罪を見ても仕方ないので、ここでは大学教育自体の低迷が声高に叫ばれる昨今、これを解決しないままに新たな(敷居の低い)高等教育システムを導入することには思慮のある市井の皆さまのコンセンサスは得られないだろうということを指摘すれば十分でしょう。

というのが、最近までの私の意見です。私は件の答申をしっかりと読むにつけ、自分がお国を支える官僚組織の深謀遠慮に気づかない、俗物似非インテリとしての馬脚をさらしてしまっているのではないかと、疑うに至りました。つまり、二つめの理由はお国の意図とはまったく正反対の、まさにとんちんかんな批判だったのではないか、と。

よくよく今までの個々の政策を見てみると、徒に大学を増やし、その質を貶めていると考えられたものが、実は本当の意味の(これは誤解を招く文句ですが、私の乏しい語彙力と表現力のいたらなさです)大学を選抜し、そこに資源を集中するための施策だったのではないかとも考えられるのです。お国としては最初から、1990年初頭の大学設置基準の大綱化以降、2000年代の初めまでは大学の大衆化を推し進める腹積もりで、これ以後は大衆化された高等教育に新たなヒエラルキーを構築する魂胆だったと。
こう考えられるのは、私がこの界隈で働くことになってからずっと言われ続けて、その度に大学人から批判されていた「大学の機能別分化」というお題目にあります。大学界隈にいない人には馴染み深いフレーズではないと思いますが、簡単に言うと、「世界をリードする研究大学」とか「社会でリーダーになれるエリートを養成する大学」とか「地域で働く人材を育てる大学」とか、大学を役割別に7つくらいに区分けして、各大学がその役割に応じて教育研究をやっていきましょうというものです。これは先に述べたとおり、「ます初めに研究があって、その成果を教育や社会に還元していくことが大学の本分」という考え方に反するもので、第一に研究者でありたい、研究機関でありたい大学人にとっては受け入れ難い考えでした。
しかし、今や大学の40%以上が定員割れする状況にあり、各大学が市場のニーズや自らの強みを再考してマーケティングをし直した結果、かなりの大学が「就職に強い」を売りにするようになりましたし、「国際性」や英語教育を強調して受験生を集めるようになりました。「ノーベル賞が取れるような研究」(このフレーズは多分に研究への冒涜を含んでいます)を売りにする大学がほとんどないことからも、多くの大学が本分であるはずの研究を後退させざるをえない悲しい現実がうかがえます。
一方でお国は研究力の強化を捨てているわけではありません。ここ数年でもリーディング大学院の認定や研究に専念させるための学位規則の改正、今年にはなんと指定国立大学法人の認定を行うらしいです。お国は基礎研究を軽視していると、かのノーベル賞科学者も強く批判していますが、これらの施策は研究資源を集中させるためのもので、結局は一部の能力ある研究者の利益になると思われます。ノーベル賞受賞者を生んだ昭和の牧歌的な研究環境は二度と訪れないにしても、研究力のある大学を選抜することによって(ということは、擬似的に研究に専念できたごく少数の研究者がいた昭和時代の環境を作り出すことによって)、研究に専念できる選ばれし研究者を生み出そうとしているのかもしれません。とすれば、文系の国立大学の定員を減らし、理系の学部への改組を迫るあのやり方にも意味があるというものです。つまり、職業教育レベルの準高等教育は私立大学に委ねて、いずれはこれらの私立大学を「新たな教育機関」に変更していただき、生産性の高い(すなわち、安くて実効性の高い)教育をしていただきます。そして、できる限り限られた高等教育資源を生産性は低いものの、将来の可能性を大いに秘めた秘密の実験室に投資できるようにしよう、と。ここまでくれば、高等教育の無償化にだって意味は出てきます。

という誇大妄想的な考えが去来したかと思うと、こんな日本を支える偉大な方々の遠大な思考には全くついていけないと考えるに至り、憲法9条という十字架を下げながらお国のために尽くしている自衛隊の皆さんに敬意を表しつつ、私といえば、せいぜいお肉のために戦おうと心に誓う本日であります。

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