玉ねぎカフェ

文学作品の一節を引いたりしながら、私が社会について考えていることを綴っていきます。引用魔ですので。

ピンク色の研究

「うちで店員や事務員を採用するときは,外見のこのましいことをとくに重視します。」
(…)
「かならずしもきれいでなくとも。決め手はむしろ道徳的なピンクの肌の色ですねえ。お分かりでしょう……。」


ジークフリート・クラカウアーのルポルタージュ『サラリーマン ワイマル共和国の黄昏』の一節である。このレポートは1920年代のベルリンのサラリーマンを統計データやインタビューなどを通じて多角的にスケッチした,クラカウアーの作品の中では特に評価の高いものとされている。しかし,クラカウアーという人物自体が多くの人たちにとってなじみ深いものではないので,彼の評価がどうとかそんなことに言及しても意味のないことかもしれない。ジークフリート・クラカウアーは1920年代から戦後にかけて活動した社会派ジャーナリスト,映画評論家のドイツ系ユダヤ人である。とりわけ映画評論の分野では先駆者の一人とみなされており,専従で広範にわたる映画評論を展開したのは彼が初めてなのかもしれない。また,本作『サラリーマン』は世界で初めてのサラリーマン論として,非常に地味ながらも優れた先見性というか,時代感覚を感じさせる人物である。
私はクラカウアーをヴァルター・ベンヤミンとの関係で知った。彼とベンヤミンは友人関係というほど親しくはなかったようだが,互いに関心分野が重なっていたことや同じユダヤ人で,ナチ時代は迫害を受けながら在野の著述家,研究者として糊口をしのいでいたという共通項から,それなりにやり取りがあったようである。本著『サラリーマン』についても,ベンヤミンは書評を寄せている。まあ,必ずしもお互いを高く評価し合っていたという形跡は見られないのだが(蛇足だが,共通の知人で戦後フランクフルト大学の教授となり,いわゆるフランクフルト学派の主軸として活躍したT.W.アドルノはクラカウアーを酷評している。批判哲学の正統的後継者たるアドルノにとっては,生活のためとはいえ,マスメディアの中でコロコロと立場を変える八方美人なクラカウアーは決して誠実な思索家とはみなされなかったというのは想像に難くない。)。

さて,最初の引用は,クラカウアーがある企業の人事担当者にインタビューした際のやり取りの一部である。この担当者の言葉や採用の基準,昇給の評価の基準などなど,『サラリーマン』で言及される内容は80年の時を経ているとは思えないような,今でもどこかで聞きそうな内容に溢れている。このクラカウアーの先駆的(笑)な作品をもって私たちの生きる現代社会の問題を解き明かせるなどとは思っていないが,なかなか耳の痛い,陰謀論めいた実話や噂話に通底する話題が多いもので,なかなか興味深い。
上述のやり取りの中で明らかになるのは,今も昔も変わっていないとはいえ,我々サラリーマンにとっては残酷な結論である。つまり,「採用基準なんてものはなく,求められる人物像なんてものはなく,ただただサラリーマンというものは替えの利く要員に過ぎない」ということだ。この事実は,クラカウアーも指摘しているとおり,サラリーマンという人種が工場労働に従事する「プロレタリアート」に近しい性質を備えていることを如実に表している。ただ,サラリーマンが厄介なのは次の言葉に集約されるであろう。

「銀行公務員の一部はブルジョア階級の出身です。レベルはたしかにプロレタリア的とはいえない。」

サラリーマンは高い自意識を備えている。というよりは,サラリーマンになる人間というものはある程度の高度な教育を受けていて,労働(いい言葉が見つからないので,誤解を招く可能性を侵してこのタームを遣うことにしよう)自体にただの生活の糧以上のことを要求する力と余裕のある人間に属する。一言でいえば,私たちは自分の人生にただ生き残る以上の質を求める。
日本において,高校を卒業して就職する率が20%弱であり,約80%の人間が中等教育以上の教育を受けるのが現実である(詳細を記せば,大学進学率が約50%,短大を含めて約55%,専門学校等まで広げて80%であり,これらをすべて高等教育とみなせば80%の人間が何らかの高等教育を受けているという試算になる。OECD平均の高等教育進学率が62%なので,これが高いとみるか低いとみるかは高等教育の定義によるだろうが)。高等教育というものの実態は,高度な研究活動に勤しむことではない。西欧型の近代的リベラルアーツの考え方からすれば,社会にコミットできる立場を前提として,変化し続ける時代や社会に柔軟に対応し,それらを先導できる教養・技能を身につけることが高等教育の本筋である。現実の大学教育がこの水準に達していないという議論はあるにせよ,私たちのかなりの部分がそういう自意識を育む土壌で生きてきた。そんな高度に発達した自意識の果てが,替えの利くサラリーマンだとすればそれはどれほど不毛な結末であろう。

そもそも(これは「基本的に」という意味ではないらしい笑),プロレタリアートという階級は高等教育を受けた自意識を前提としていない。マルクスが唱える「完全に社会化された人間」というのは,社会を主軸にした世界観であって,それには自由も平等もあり得ない(この場合の「社会化」は「ゲゼルシャフト化」の意味であり,これは利害団体の集まりを意味する言葉であるから,「社会」と「自由」「平等」の哲学的な議論を待つことなく,自由と平等は存在しない)。しかし,西欧型の近代的リベラルアーツは「自由」と「平等」を称揚する学問(というよりは教育)体系なのである(残念なことにリベラルアーツ教育から生まれた社会主義的な考え方は,その価値観の否定を含んでいるため,マルクス原理主義は修正しながらでしか生き残ることはできないと思われる)。したがって,今日のサラリーマンがクラカウアーの分析したワイマール共和国のそれと比べて,さほど変化してないとしたら,自家撞着の畸形児が量産されている社会ということになる。また,生活に心配なしに自由と平等を享受できる人間はごく限られていることを考えれば,まずは経済的な安定を満たすためにサラリーマン以外の選択肢はなかなか取りづらいというのも現実である。

高校時代に「いくら勉強していい大学に入っても,結局君らの資本は身体しかないのだから,労働者として働いて生活するほかない」と担任に言われたけれども,まさにその通りの世界が私たちの前に広がっている。それでも,ピンク色と道徳の解き難い哲学的な混交物に勤しむよりは進歩した社会だと信じて,私たちは選択をすべきなのだろう。もし,それもできない社会だと考えるのであれば,「社会」はそもそも(最初から)「自由」と「平等」の敵だということを思い起こし,戦うべきなのだ。
問いかけはこうだ。あなたはどっちの瓶を飲む?
それが厭なら,自分の頭脳に命をかける?