玉ねぎカフェ

文学作品の一節を引いたりしながら、私が社会について考えていることを綴っていきます。引用魔ですので。

サミュエル・ラチェットを殺せ

クリスティが書く探偵小説は当時の大都市の性格を如実に表現している。『そして、誰もいなくなった』では、全く共通点のない人々が集まる大都心の典型的な特徴とともに、それによって埋もれていく軽重様々な犯罪と義憤をテーマとした。とりわけ、ウォーグレイブ判事の独りよがりの正義感に依拠した怒りは今ではインターネット上のそこかしこで見られ、時たま「炎上」として大きな話題となる、あの現象と通ずるものがある。また、『ABC殺人』は、地名という記号の中に犯罪の真犯人と動機を覆い隠し、加えて、記号化され、尊厳を奪われた相当数の被害者の名を明らかにしている。これらは、大都市の形成と発展に伴って、不特定多数の人々が流入し、流出するようになったために、そこに住む人々が平板化し、名前で呼ばれなくなり、いわば記号化していく過程の証左となるものだ。互いが互いの人となり、顔、名前ですら知らない場所。これを可能にするのが大都市であり、犯罪の温床として探偵小説の生を支えるものである。加えて、昨今の私たちの「生きづらさ」の根本原因の一つして悪名を轟かす現代社会の有名なテーゼとして捉えられている。

 

私のかねてからの持論(それは実のところ受け売りにすぎないのだが)は、「都市を森として捉えること」である。したがって、先に述べたような断絶され、疎外された人間の姿が専ら都市の相貌であるとすれば、私の考えとは相いれない。森は独自の生態系を持ち、外部者を拒絶する排他性を備えてはいるが、そこに住むものを孤立させることは決してない。森は奥深く、ウェットで重層的な世界である。人間が生きるコミュニティの中でこの世界像と一番マッチするのが大都市なのだ。

オリエント急行の殺人』は大都市の表層的な部分、つまり、名前で呼ばれず、誰ともつながらない記号化された人々と都市の深層と重層性によって成立しえた、至高の犯罪、否、作品であるといえる。ヤーヌスとしての都市が浮かび上がる。

 

「小さいデイジー・アームストロングを忘れるな」

 

私たちは決して孤立してなどいない。だからこそ、五感すべてで感じ、全身全霊で試行し、自らの自由を示せ。