玉ねぎカフェ

文学作品の一節を引いたりしながら、私が社会について考えていることを綴っていきます。引用魔ですので。

「朝食」の日雇い労働者に対する一種の憧れみたいな感覚について

たった一度だけ読んだだけだけれども、私はジョン・スタインベックの「朝食」という短編を忘れることができない。主人公である一人の男が、ある朝、日雇い労働者のキャンプの近くを散歩していると、そこにいた労働者父子に朝食に招待されて、一食を共にする、というだけのごく短い掌編である。私の胸に去来するのは、労働者父子から出たあの言葉だ。あの言葉のせいで、私は今でも、いや、今だからこそ余計に、心を苛まれるのである。

 

「今日まで10日間仕事があるんだ。よかったら、お前にも紹介しようか?」

 

この掌編を手に取った当時、私は大学院生で、そろそろ就職を本格的に考えなければならない時期だった。当時は、団塊世代の大量退職とリーマンショック前の景気回復の恩恵が広がってきていて、新卒採用の状況も活気を帯びていたときだった。文系大学院生というハンディキャップを背負った私でさえも、「正社員になれるだろう」と、どこか気楽に構えていられたように思われる。そして、そのとおりになった。

私の入った職場は、給料、労働時間等、傍から見たら、相当な「安定」企業だったと思う。もしかしたら、今は夢の終身雇用だって達成できそうなステキ企業だった(実態はいろいろあったし、私の辞めるきっかけはかなり凄惨な状況を目の当たりにしたせいだけれども、古き善き「昭和」の職場の空気を多分に感じさせた)。いずれにせよ、私は七年後にその場所から去ってしまった。

転職をしたとき、なぜか「正社員」を避けてしまって、契約社員になった。

あの日雇い労働者が、屈託のない笑顔で「10日間も」という言葉を発することができた理由をずっと考えてきた。時々私の胸に去来して、ちょっとの時間だけ思い悩んだ、というのが実のところだけれども。彼は「日雇い」という生き方しか知らなくて、「終身雇用」とか「無機雇用」とか、「正社員」とかを知らなかったから、こんなことがいえたのだろうか。それとも、高度経済成長期の日本のように、これから豊かになることを信じることができる時代に生きてきたからだろうか。彼はただ、素朴で愚かだったから、「10日間」の雇用で満足できたのだろうか。

今の私は単純にこう感じている。彼はあの朝食の時間が幸せだったのだ、と。彼はその時、明日の失業を考えていないし、近い将来、食べていけなくなる可能性も彼の頭にはない。ただ、この朝食の時間、見知らぬ客人を招き入れたわずかな団欒の時間の中に彼の人生は没入している。その瞬間的な現在には、過去も未来も付け入る余地がない。そうやって、今を生きることができる、このことが私にとって憧れなのかもしれない。

私たちが将来を不安に思うのは、時代がそういう雰囲気である以上に、あの労働者のように現在を享受することを知らないせいなのだろうと思う。「終身雇用」という、日本において、ごくわずかな期間だけ成功したあのシステムもまた、結果として生まれたものだったのかもしれない。昭和から感じる幸せの残り香は、「終身雇用」による安定のおかげでもなく、社会が豊かになっていく時代の空気でもなくて、その時に生きた人たちが、今の瞬間を自分のものとして享受できたことによるのだろう。

正規・非正規という言葉を持ち込んで、「正社員」という瞬間を無視した、社会的な時間の琥珀の檻に個人を閉じ込めたところで、私たちは幸せを手にすることはできない。返す刀で付け加えると、「一億総活躍」というスローガンで人々を纏め上げられたとしても、せいぜい日露戦争を勝利に導くくらいのもので、あの時代に生きた人たちのささやかな幸せを私たちの社会にもたらすということにもならない。

 

私たちはいろいろと間違っているのだ。