玉ねぎカフェ

文学作品の一節を引いたりしながら、私が社会について考えていることを綴っていきます。引用魔ですので。

探偵とパノラマに関する覚書ー「ビブリア古書堂の事件手帖」

職場の先輩に本について話ができる人がいて,その人が『ビブリア古書堂の事件手帖』を貸してくださいました。この作品はドラマ化されたときに日記でも取り上げましたし,私の母も楽しく読んでいるのを見ていましたので,大体の内容は存じているのですが,きちんと手にとって読むのは初めてです。読んでみると,案の定,私の関心にフィットするものがありましたので,覚書に加えたいと思います。

古書堂の店主,篠川栞子は本に記された物語だけではなく,その本を手に取った人々の紡いだ物語をも見る。彼女が読む「物語」は「事件手帖」という表題から想像されるようなドラマチックなものは見られないが,彼女が本を手に取り,ページを繰りながら,本の持ち主の人生を語っていくさまは探偵の祖ともいえるオーギュスト・デュパンの姿を思い起こさせる。
エドガー・アラン・ポーの作品の中で,探偵デュパンが登場するのは三作品だけである。「モルグ街の殺人」「マリー・ロジェの謎」「盗まれた手紙」である。その中で件の古書堂の店主を彷彿とさせるのは,「マリーロジェの謎」におけるデュパンだ。この物語において,彼はマリー・ロジェという女性が殺害された凄惨な事件について,日々の新聞記事から彼女の人物像,周りからの評判,当日の行動を解き明かし,事件の真相を究明していく。しかし,彼は新聞記事における矛盾や報道内容の変化,食い違いを指摘し,初めは悲劇の孝行娘と思われたマリーが,素行不良のプレイガールであることを看破してしまう。デュパンの推理と栞子の読み解きを比較すると,デュパンが新聞で報道される,いわば世間が作り上げた「物語」を解体し,再構成していくのに対し,栞子は書物を手に所有者の人生を素直に読み解いていく。

一方で栞子の推理の仕方は,探偵のそれである。ちょうど,デュパンが他の二つの作品で見せたような細部に渡る注意と分析が栞子の読み解きを基礎付けている。彼女は本の傷から,値札から,落書きから,署名から,そして本に書かれた「物語」から,それぞれが全く関係のないように見える細部から,所有者の「物語」を再構成していく。そういう推理技術を「演繹的推理術」としてドラスティックに展開して見せた,シャーロック・ホームズの推理は,比較対象として,彼女のやり方の基本的性格を浮き彫りにするだろう。

ビブリア古書堂の事件手帖』の雰囲気はノスタルジーとファンタジーに満ちている。鎌倉の歴史ある小さな古書堂に,店主は浮世離れした美女,本が読めない,本に憧れる男。これらの事象が,事件ごとに取り上げられる文学作品の持つ構成力と相俟って,この小説全体が一つのファンタジーと化している。したがって,この作品を論理的,分析的な「推理小説」と読むことは難しい。一方で,この作品の主役は科学的分析,といったら少し大げさかも知れないが,事件を解き明かすのは,古書店の主としての職業的鑑定眼と技術のなす業である。その意味で,この作品はデュパン的な探偵小説につながっているのだ。

昔ながらのファンタジーと現代的なものが交錯する点はポーのデュパンには見られないものだが,ドイルのホームズには随所に認められる特徴である。以前,私はホームズの都市的な姿以外の姿をほのめかしたが,ちょうどこれがいわゆるファンタジーに当たると考えられるだろうか。いずれにせよ,『ビブリア古書堂』にそういう視点を向けるとき,外国の作品よりも日本の作品を例にしたほうが分かりやすい。江戸川乱歩の作品は近代と前近代,古代と現代が交錯している。「屋根裏の散歩者」では江戸時代からある母屋を舞台としていながら,そこに下宿している人間たちは互いに顔を知らないという,都市のアパートやマンションのような実態が事件の契機となっている。「暗黒星」では洋館で発生する凄惨な殺人事件と神出鬼没の洋装の怪人に対し,事件の真相には洋館の地下に張り巡らされた古い地下道が鍵となる。『孤島の鬼』では都市で起きた殺人事件の裏には,昔から虐げられてきた人々の深い憎悪が渦巻いていた。
乱歩の作品では,古代と現代の交錯が事件や舞台をおどろおどろしく彩っているけれども,『ビブリア古書堂』では,これらが幸せに結びついて懐かしいファンタジーをかもし出している。そして,そのファンタジーの始点であり,終点が本なのだ。本自体が『ビブリア古書堂』の神話的な像の源泉である。ただし,栞子自身が次のように語るとき,この源泉の根源が決して,無邪気なファンタジーではないことが明らかになる。


古書店の人間に必要なのは,本の内容よりも市場価値の知識なんです。本を多く読んでいるに越したことはありませんが,読んでいなくても学べます。実際,仕事を離れると,ほとんど本を手に取らない古書店員も珍しくありません。わたしみたいに何でも読む方が変わっているかもしれないです……」
(『ビブリア古書堂の事件手帖』第一話より,メディアワークス文庫


本というのはとてもフェティッシュな神さまなのである。

探偵とパノラマに関する覚書3

シャーロック・ホームズが「最後の事件」で失踪し,「空き家の冒険」において復活を遂げるまでの間に,アーサー・コナン・ドイルは『バスカヴィル家の犬』という長篇のホームズ物語を書き上げている。この作品はホームズ物語の中でも最も知名度が高く,特に成功を収めたものであるが,探偵小説としての位置づけから大きく逸脱したものである。それはただ単に,事件の舞台がロンドンのベイカー街ではないことが理由ではない(ベイカー街が舞台とならないホームズ物語は少なからずある)。『バスカヴィル家の犬』という作品が,その他のホームズ譚のように都市の幻像をよりどころにしているのではなくて,自然の神話的諸相が生み出す幻像をよりどころにしているからである。

ヴァルター・ベンヤミンの「ゲーテの『親和力』」という評論において,『親和力』という作品における神話的な力学の存在が語られる。それは近代的でない(つまり,人間の自由な意志によらない)規約の力であり,人間の力が及ばない自然の力である。それらは彼の後の議論からすれば,「運命」という概念に集約されていく。そして,その運命の対概念が「性格」であって,ベンヤミンは『親和力』の登場人物の「性格」の欠如を指摘する。この登場人物たちの「性格」の欠如が,「運命」が物語を跋扈していく大きな要因となる。

『バスカヴィル家の犬』にはそのような神話的諸力が物語の基盤となっている。バスカヴィル家にまつわる魔犬伝説がその家の当主の不幸な運命を示しているのは当然として,物語の舞台となるダートムアの地は都市の文明とはかけ離れた古代的な様相を色濃く残している。森林と荒野に囲まれたバスカヴィル館,不毛なムアの土地,古代人が暮したという石の住居跡,極めつけは物語の主犯さえも飲み込んだ底なし沼と濃霧。これらの背景はワトスン医師とサー・ヘンリー・バスカヴィルが,ロンドンの街からバスカヴィル館に向かう道程において,少しずつ物語を侵食していく。


馬車は脇道に入り,何百年もの馬車の往来で轍が深く刻まれた,くねくねした小道を登っていった。その両側は盛り上がった土手で,湿ったコケや,シダがびっしりと覆っていた。褐色に変色したワラビやまだら模様のイバラが夕日の中で光っていた。さらに登っていき,今度は,狭い花崗岩の橋を渡ると,大きな,灰色の岩石のあいだを泡をたてて轟々と流れる急流に出た。馬車はこの道に沿って登っていった。小道も川も,オークやモミが密集する谷間をうねうねと続いた。山道を曲がるたびに,バスカヴィルは歓声を上げ,辺りの景色に見入ったかと思うと,次には答えきれないほど多くの質問を浴びせかけた。彼の目には,すべてが美しく映ったようであるが,晩秋の訪れが明らかに感じられるこの光景に,わたしは,うつうつとしたものを感じないわけにはいかなかった。黄色い落ち葉が小道につもり,通っていくわたしたちの上にはらはらと降りかかった。車輪のガタガタという音さえも降りつもった古い枯葉に打ち消された。バスカヴィルの新しい当主へ,大自然はなんと寂しい贈物をするのであろうか。
C.ドイル『バスカヴィル家の犬』河出書房新社


サー・バスカヴィルは既に神話の魔力に囚われている。

この物語には当のホームズが登場するシーンが非常に少ない。それは彼自身が,物語が支配する諸力に対して疎遠であるからにほかならない。コナン・ドイルは彼の探偵を論理的かつ機械的な理性の権化として規定していたことを思い起こせば,彼がこの世界にとって,観察者としても登場人物としても不適当であることは一目瞭然だろう。物語を高めているのは自然のもつ昔からの幻像であって,ホームズの領分である都市的な幻像ではない(この幻像には本来的に大きな差はないのだが,やはり共存は難しいのだ)。ただし,大自然のパノラマはこのホームズをもって非常に印象的な画像を映し出している。それは神話的諸力に目を慣らされたワトスン医師の想像力がなせる業であることを差し引いても,興味深い場面である。


これ以上追跡を続けても無駄だとあきらめたぼくたちは,石から腰を上げ,いま来た道を戻って帰路についたのだが,まさにこの時,突然予期もしない奇怪なことがおきたのだ。月はぼくたちの右手の低いところにあり,花崗岩の岩山の鋭く尖ったトアが,銀色の丸い月の下側に突き刺さるようにそびえていた。ちょうどそのトアに,輝く月を背に,黒檀の彫像のような輪郭を浮かび上がらせている男の姿があったのだ。ホームズ,これをぼくの妄想だと言わないでほしい。この時の見え方は,これほどはっきりと見えたためしはないというほどはっきりしている。ぼくが見たところでは,その姿はほっそりと背の高い男だ。足を少し広げ,手を組み,頭は垂れて,目の前に広がる泥炭と花崗岩の広い荒野を眺めながら物思いにふけってただすんでいるようにみえた。もしや,この恐ろしい地に住む地霊ではないか。(……)驚いて叫びをあげ,準男爵に彼を指し示そうと腕を取ったとたんに,その男の姿は消えた。見ると,花崗岩のとがった頂きは相変わらず,月の下の部分にかかっていて,そこには微動だにせず,静かに立ちつくしていたその姿は影も形もなかった。
(同上)

以上

探偵とパノラマに関する覚書2

パノラマ空間というのは,観察者の周囲を円筒状に取り囲み,観察者はその円筒状のスクリーンに映し出された映像を見ることで成立する。絵画において,観察者が縁取られた画像を外側から眺めるのとは異なり,パノラマ空間では映し出された画像と観察者を隔てる境界が見た目上存在しない。観察者は自然の中にいるように自然を観察することができ,都市の中にいるように街の風景を観察することができる,そういう擬似的な一体的空間を作り出すことがパノラマ画像の設計思想である。絵画に代表される遠近法画像において,私たち観察者が観察対象である風景と隔絶されているという疎外状態から,パノラマ画像は私たちを救い出してくれるように思われる。そう,あくまで「思われる」だけであって,パノラマ空間の中で私たちは,一層風景と自分が分け隔てられたものであることを経験する。その孤独な姿の一類型が大都市に揺籃期に多く生み出されることになった探偵たちである。

探偵小説における探偵は,物語の中で物語の登場人物として発生した(難)事件に直に関わる。彼は事件現場に立会い,事件の関係者と直接会話し,事件を巡る様々な舞台装置を入念に調べ上げることで,事件の犯人を追跡する。しかし,彼は事件の当事者であることはない。探偵は物語の中で物語の人物として振舞っているように見えるにしても,彼はあくまで容疑者でもなく,被害者でもなく,事件の真相には何の関わりもない観察者であるに過ぎない。ただ,彼は理想化されたパノラマ空間である事件現場において,風景と同化しつつ,常に外側の人間として,傍観者として,追跡者として振舞うことができる。

パノラマの魔術は絵画のそれよりもずっと複雑で,自家撞着を含んでいる。絵画においては,私たちは外部からの観察者であり,観察対象たる描かれた風景や人物から遠ざけられたままである。それは対象との隔絶と疎外を意味するかもしれないが,私たちはそれを寂しく思いつつも,受け入れざるを得ない現実として受け止めることができる。しかし,パノラマは異なる。パノラマは対象と同化したいという私たちの憧れから生まれた特殊な空間を創りだす装置であって,それを擬似的に叶えようとする道具である。観察者が観察対象と同一のものとなりつつ,観察者であり続けることはある種の幻像であり,無味乾燥な言葉で言えば,錯覚に過ぎない。パノラマ空間において,観察者は夢幻の中で覚醒し,疎外者としての自らを認識する。それは禁忌を犯す先触れとなる。その禁忌を端的に示しているのが,「鏡地獄」だ。乱歩のこの小説の中で,鏡に魅せられた男は360度鏡を張り巡らせた球体を作り上げ,その中で自分自身を全ての方角から観察しようと試みる。すなわち,観察者自身が観察者を観察対象とする。これは破局である。球体の鏡はパノラマ空間の観察者を「裏返し」にしてしまう。球体の鏡が実際に人を狂わすような作用を及ぼすわけではないが,乱歩が描いた男の狂気はパノラマ空間がかもし出す幻像の矛盾を見事に突いているといえる。

したがって,探偵小説において,探偵自身が事件の当事者になる場合には,混乱と矛盾と破局が生じる。探偵は被害者にはならない,犯人になってはいけないのは当然としても(そういう叙述トリックが生まれるのは,パノラマ的探偵が存在意義を失って以降の話だ),事件の関係者として登場すること自体,探偵小説が創りだすパノラマ空間のかりそめの調和を破壊する契機となる。
シャーロック・ホームズ譚において,ホームズ自身が事件の当事者となるエピソードは非常に少ない。その中でも,上述の探偵の禁忌を如実に示しているのが,「最後の事件」である。「最後の事件」において,ホームズは単なる事件の追跡者ではない。彼は命を狙われる当事者であり,事件の核心の中にいる重要参考人である,というのは,この物語がホームズとモリアーティ教授の対決に主眼が置かれているからである。本来,事件の観察者という立場にあるはずの探偵が,事件にスポットを浴びせられたとき,彼がライヘンバッハの滝に落ちていくのは必然であった。探偵が探偵を観察し,追跡する物語は,先の「鏡地獄」のより都市的な変奏に過ぎない。

そして,死んだと思われたホームズが劇的な復活を遂げるのは,ひとえに熱烈なファンの声や作者ドイルの胸先三寸によるものとはいえない。アーサー・コナン・ドイルは少なくとも物語の中で,一つの予防線を張り,一つの通過儀礼を行うことによって,探偵を復活させる,すなわち,探偵小説の幻像を再び生み出すのである。予防線とは物語の語り手の存在である。ホームズ譚は基本的にホームズによって語られるのではなく,彼の傍らにいるワトスン医師によって語られる。ホームズは決してパノラマ空間の孤独な観察者ではなくて,常にもう一つの目によって観察されている。ワトスンの存在が,探偵自身がパノラマ空間の禁忌を犯したとき,シャーロック・ホームズ物語という探偵小説が不完全なパノラマ空間であったことを祝福するのである。ホームズが死ななかったのは,ひとえにワトスン医師の功績と言っても過言ではないだろう。さらに,ホームズ自身がこのチャンスを見事にものにしている。

それは,彼の復活の舞台である「空き家の冒険」において,ホームズ自身が自らの蝋人形を身代わりにすることで,命を狙われる自分自身を事件の当事者としての存在から分離した。ベイカー街の彼のオフィスでセバスチャン・モラン大佐の凶弾がホームズの蝋人形の頭を撃ち抜いたとき,ホームズは再びパノラマの幻像を取りもどしたのである。
ただし,これ以降のホームズが,理想的な都市の幻像ではなくなっているのも,きっと真実なのだろう。

探偵とパノラマに関する覚書

「ふるさとへ帰る」というのはどういうことだろうか。関東の生まれで,今も関東に住んでいる私にとって,ふるさとが持っている「遥けさ」のイメージは文字どおり私自身の感覚にとって非常に遠いものだ。子どものころ,夏休みや冬休みの前に「田舎のじーちゃんとばーちゃんのところに行く」という同級生の言葉が理解できなかった。自分の田舎とはどこだろう?父方の実家は歩いて数分のところにあった。
大人になってからは,子どもの頃には全く感じなかったふるさとの感覚が,つまり「遥けさ」が私自身にも生まれるようになった。それは両親と住んでいないという単純な事情からではなくて,悠々と実家に住んでいたときでさえもやはり感じるようになった「遥けさ」がある。それは,かつての自分がいる風景としてのふるさとが,ある一つの額縁に飾られた絵画のように見え始めたことと関係があるのかもしれない。私は自分の姿が描かれた絵を見ているのだけれども,描かれた自分は観察している自分と一体ではない。タイムトラベルは楽しいけれど,大好きな絵の中に閉じ込められはしないのだ。

ところで,ふるさとをふるさとと感じる原因が,「遥けさ」,言い換えると,自分がふるさとから(物理的に,あるいは精神的にも)離れているという感覚であるとしたら,都市にはそういう感覚を奪う効果がある。それはふるさとが絵画で例えられるとして,都市は絵画とは違ったイメージを提供するからかもしれない。
額縁に縁取られた絵画というのはデカルト式遠近法画像のモデルである。遠近法画像において,私たちはある限定された世界をその世界の外側から認める。この「外側」というものがふるさとの「遥けさ」を形成するのだとすれば,そのことは私たち自身が既にふるさとから(物理的にも,そして精神的にも)遠く離れてしまったことを示していることになる。そして,ふるさとがかくも懐かしく,美しいものとして映るのは,デカルト式の統覚が絵画の領分であるからといえるのかもしれない。統覚によって,物事を整理し,均整の取れたものとして捉えるという啓蒙時代初期の哲学の名残は,私たちがとっくに巣立ってしまったふるさとの姿の写し絵にも見える。(想い出はとても美しく,そして素晴らしい力を持っている)
ふるさとから都市に出てきた若者が感じる孤独感,寂しさというものが,疎外された観察者という遠近法画像の観察者の孤独とオーバーラップするとすれば,観察対象の中心に立つというパノラマ画像の発達が都市を揺籃としていたこともうなずける。都市の一部として都市を観察するという感覚が,孤独な都市の住人の慰めとなるのだ。だから,前述したとおり,都市には「遥けさ」という感覚とは無縁である。

そして,パノラマ画像の観察者としてとっておきの存在が初期の探偵,シャーロック・ホームズで頂点を迎えた我らの孤独な遊歩者たちであるといえるだろう。

思考を外注出来たらどれほど楽だろうか。

「これまでの人生を振り返ってみるがいい。自分の身に降りかかった重大な出来事は,誰かの悪意の産物だったかな?あるいは善意の賜だったかな?違うはずじゃ,物事の歯車がどうしようもなく狂ったせいだったはずじゃ。」

カーター・ディクスン『ユダの窓』)

 

 

人の意識というのは面白いもので,ある時,何気なく目にした言葉が自分のかねてからの考えにぴったりと合わないまでも,少しでもかすめるものであった場合,それをかくも都合よく解釈し,心に強く留めることがあります。新年早々に出会った,かの名探偵H.M.卿の人生訓も私にとってはそのように作用したわけであります。つまり,「世界を左右するような巨悪が想定できない世界は不幸だ」という考えと結びついたのです。言い換えれば,ハンナ・アーレントアイヒマンを挙げて,「悪の矮小さ」を指摘した際に受けた凄まじいバッシングの意味が私たちにとっての「不都合な真実」ではないかということです。

 

それは新年の番組で安倍首相を嬉々として批判する評論家やコメンテーターたちが,イランの暴動を見て言葉少なに複雑な状況を指摘した時にも感じました。イランは最高指導者を頂点にした半独裁体制ですが,今の大統領は穏健派のロウハニ師で,彼はアメリカとの核合意を取りまとめた開明的な人物です。トランプ大統領になってからその合意は反故にされかけているわけですが,イランの核開発はアメリカばかりでなく国際的な非難を受けていますし,シリアやレバノンに対するあからさまな干渉は決して褒められたものではありません。しかも,今回の反政府デモは明確な指導者を欠いた,イデオロギーなき民衆運動です。SNSを通じて盛り上がった若者を中心とする庶民の不満の爆発(まあ,小さな,と付言しておきますが)です。首謀者もいなければ,攻撃されるイラン政府も明確な悪者ではありませんし,圧政の権化でもないのです(これは反アメリカ,反トランプに凝り固まっていたコメンテーターたちや番組の姿勢も相まって,彼らにとってのわかりやすい敵がいなかったことにも起因しますが)。

 

それに対して,安倍首相を非難する彼らの姿は無邪気で,とても微笑ましいくらいです。安倍首相がいなくなれば日本は平和に,良い方向に進むと純粋に信じているくらいに感じられます。彼が絶対悪で,醜い権力欲によって突き動かされ,圧政を敷き,日本を戦争と混乱へと導こうとしている。そんな三流シナリオがあれば私も嬉々として乗っかりたいところですが,事情はそれほど簡単ではないのです。実は,そんなことはみなわかっています。彼を追い落としたところで何が変わるわけではないのです。日本の権力者が行使できる権力はさほどのものではありません。せいぜい,官僚に圧力をかけて「腹心の友」に獣医学部を作らせる程度のことです。

 

さて,幸いなことに私たちの内面は自由です。誰も「時計仕掛けのオレンジ」ではないですし,ビッグブラザーは愛してくれていないし,幸福が義務でもありません。だから,世界の不条理を自分とは無縁な巨悪に仮託してもよいし,「物事の歯車がどうしようもなく狂った」「時代の関節が外れてしまった」という大いなる偶然に身をゆだねるのもよいでしょう。そして,「悪の矮小さ」を見つめて,世界の不条理の種子を自分自身に見出すのも可能です。

 

「――あなたたちはこのチューリングの前提を厳密に議論したことがある?チューリングは人間が思考できる存在であることを前提とした。しかしあなたたちはその前提を真剣に考察してみたことはある?それとも,人間の考える状態を考えると呼ぶなどという同語反復に逃げ込むつもり?人工知能を研究しているつもりの紳士各々方,『機械は考えることができるか』の前に,まず『人間が考えることができるか』という問題を如何に考察する?」

瀬名秀明,『デカルトの密室』)

 

 

新年あけましておめでとうございます。

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『ナジャ』、あるいは自動生成する物語

「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう。」


私たちの読書は言葉に囚われている。それは一見とても当たり前のことで、疑問をさしはさむ余地はないように思われる。『ナジャ』が私に投げかけてきた問いは、私が長年覚えていた読書の問題を改めて浮き彫りにするものだった。
読書において、私たちは(あえて私たちとする)言葉を追う。意味を追う。作者の意図を追う。私は果たして誰を追っているのか?『ナジャ』には制約がない。『ナジャ』において意味は無力だ。

「わたしの呼吸がとまると、それがあなたの呼吸のはじまり。」
「あなたが望むなら、わたしはあなたにとってなんでもないものに、それとも足跡だけのものになるでしょう」

ナジャの言葉を字義通りに捉えて何のことがあろう。ナジャという女性についての情報はいくらでもある。実在した女性で、作者ブルトンの心を震わせた女性で、精神病院へ収容されたレオナという女性。訳者がいくら詳細に解説や注を付したところで『ナジャ』の読書は確定しない。最後には、言葉という瓦礫を前にして私は途方に暮れる。いや、『ナジャ』には言葉があり、文字があり、絵があり、写真がある。それはあらゆる手掛かりであるのだが、それが私たちに共通のゴールを、唯一無比な解釈を与えてくれることは決してない。物語はオープンなまま、自由で覚束ない。ブルトンもまた、40年後に「遅れた至急報」を書いたのだ。ブルトンがもし永遠に生きているとしたら、『ナジャ』はいくらでも至急報を送り続けるだろう。彼にとって、過去のすべてと現在の何某かの一切合切が「合図」となって、『ナジャ』の契機を作り上げる。『ナジャ』は変化を続ける。作者の意図とは関係なく、作者を操るように、痙攣的に、非線形フラクタルを描き続ける。

作者というメディアがなくなった今、彼女の物語は読者の中で痙攣的に生成し続ける。
「私は誰か?」

誰がいるのか?あなたなのか、ナジャ?あの世が、あの世のすべてがこの人生のなかにあるというのは本当か?私にはあなたのいうことが聞こえない。誰がいるのか?私ひとりなのか?これは私自身なのか?

狂おしいくらいに、自由な読書が私の前に横たわっている。

笑いの大學

皆さまは、文部科学省が実務教育に特化した「新たな高等教育機関の設立」を推し進めようとしていることはご存知でしょうか。私も5、6年前からこの件を小耳にはさむようになり、まさか本気で進めるつもりだとは考えておりませんでしたが、お国は本気のようです。
次のような中教審の答申があります。


平成28年05月30日
個人の能力と可能性を開花させ、全員参加による課題解決社会を実現するための教育の多様化と質保証の在り方について(答申)(中教審第193号)


中教審文部科学省の諮問機関であり、実際に政策を決定する権限はありませんが、この審議会が持つ教育政策への影響力は絶大です。中教審の答申を追うだけで向こう10年くらいの政策の方向性を占うことができます。国は教育政策をコロコロ変えているように見えても、案外、中・長期的な展望を持って着々と世論と政策を誘導しているのです。殊に保守的な高等教育については、私が高等教育界隈で仕事をするようになって早10年、ほぼ一貫した方向性のもとでお国は各施策を実行してきています。私の感覚だと高等教育政策はここ20年くらい毎年同じことが、まるで『ボレロ』のように変奏とオーケストレーションの重厚さを増しながら、繰り返されているという印象です。

さて、件の答申は2部構成となっていて、最初の部分がまさにその「新たな高等教育機関の設立」に割かれています。それは「こうこうこういう理由で設立すべきだ」という理念的な話ではまったくなくて、養成する具体的な人材像や教育課程、設置審査のありかたまで言及しています。私はいくつかの実際的な理由で、件の高等教育機関の設立は一筋縄ではいかないと思っています。そして、二つの、これも実際的な理由(私は理念や理想を持ち合わせない人間だとかねてから主張しております)から反対の立場でした。

そう「反対だった」のです。これは別にお国の政策に賛意を示しているのではなくて、私自身の反対理由が浅はかだったかもしれないと反省しておるのです。私はこう考えていました。

一つめの理由、新たな形態の学校の設置は、天下り先が細っている文科官僚の権益と再就職先の確保につながりかねないということ。これは昨今の文科省の不祥事を挙げるまでもなく、なんともあり得そうなことです。とりわけ、大学を初めとする高等教育を所管する高等教育局は権益の少ない、弱い部局です。文科省の場合、出世コースは義務教育を所管する初等中等教育局であって、高等教育局あがりの事務次官は私の知る限り(といってもあまりしらないですが笑)おりません。文科官僚の明るい人生設計にとって「新たな高等教育機関の設立」は願ったりかなったり、神の恩寵に相違ありません。昨今のトレンドからすれば、行政権と行政コストの膨張は時代に逆行することにほかなりませんし、これらの点では賛成し難いのは理解していただけるでしょう。

そして、二つめの理由です。もし、この政策が実現した場合、結局のところ、専門学校からの改組が相次ぐだけで、苦境が続く専門学校業界の救済と安易な「準大学」の増加につながり、今まで以上に学士さまが粗製生産されるに過ぎないのではないかという疑念です。件の答申でも海外における実務系学校の高等教育機関化の例が挙げられています。たとえば、ドイツではHochshule(「実業高等学校」と訳されることが多いです)と大学の学位制度を一つにして、現地語(つまりドイツ語)で海外の人には馴染み薄い学位名を英語のBachelorとすることに変更されました。また、これは答申の例ではありませんが、海のちょっと先の台湾では大学のほかに科学技術大学なるものが設定され、大学と同等の高等教育機関とみなされています。日本でも専門学校に箔をつける政策がかなり実施されてきました。たとえば、専門士や高度専門士という称号を与え、大学や大学院への進学を有利にしたりとか、高度専門課程の認定によって高度な実務教育を行う課程の整備を進めたりとかです。海外の事例の功罪を見ても仕方ないので、ここでは大学教育自体の低迷が声高に叫ばれる昨今、これを解決しないままに新たな(敷居の低い)高等教育システムを導入することには思慮のある市井の皆さまのコンセンサスは得られないだろうということを指摘すれば十分でしょう。

というのが、最近までの私の意見です。私は件の答申をしっかりと読むにつけ、自分がお国を支える官僚組織の深謀遠慮に気づかない、俗物似非インテリとしての馬脚をさらしてしまっているのではないかと、疑うに至りました。つまり、二つめの理由はお国の意図とはまったく正反対の、まさにとんちんかんな批判だったのではないか、と。

よくよく今までの個々の政策を見てみると、徒に大学を増やし、その質を貶めていると考えられたものが、実は本当の意味の(これは誤解を招く文句ですが、私の乏しい語彙力と表現力のいたらなさです)大学を選抜し、そこに資源を集中するための施策だったのではないかとも考えられるのです。お国としては最初から、1990年初頭の大学設置基準の大綱化以降、2000年代の初めまでは大学の大衆化を推し進める腹積もりで、これ以後は大衆化された高等教育に新たなヒエラルキーを構築する魂胆だったと。
こう考えられるのは、私がこの界隈で働くことになってからずっと言われ続けて、その度に大学人から批判されていた「大学の機能別分化」というお題目にあります。大学界隈にいない人には馴染み深いフレーズではないと思いますが、簡単に言うと、「世界をリードする研究大学」とか「社会でリーダーになれるエリートを養成する大学」とか「地域で働く人材を育てる大学」とか、大学を役割別に7つくらいに区分けして、各大学がその役割に応じて教育研究をやっていきましょうというものです。これは先に述べたとおり、「ます初めに研究があって、その成果を教育や社会に還元していくことが大学の本分」という考え方に反するもので、第一に研究者でありたい、研究機関でありたい大学人にとっては受け入れ難い考えでした。
しかし、今や大学の40%以上が定員割れする状況にあり、各大学が市場のニーズや自らの強みを再考してマーケティングをし直した結果、かなりの大学が「就職に強い」を売りにするようになりましたし、「国際性」や英語教育を強調して受験生を集めるようになりました。「ノーベル賞が取れるような研究」(このフレーズは多分に研究への冒涜を含んでいます)を売りにする大学がほとんどないことからも、多くの大学が本分であるはずの研究を後退させざるをえない悲しい現実がうかがえます。
一方でお国は研究力の強化を捨てているわけではありません。ここ数年でもリーディング大学院の認定や研究に専念させるための学位規則の改正、今年にはなんと指定国立大学法人の認定を行うらしいです。お国は基礎研究を軽視していると、かのノーベル賞科学者も強く批判していますが、これらの施策は研究資源を集中させるためのもので、結局は一部の能力ある研究者の利益になると思われます。ノーベル賞受賞者を生んだ昭和の牧歌的な研究環境は二度と訪れないにしても、研究力のある大学を選抜することによって(ということは、擬似的に研究に専念できたごく少数の研究者がいた昭和時代の環境を作り出すことによって)、研究に専念できる選ばれし研究者を生み出そうとしているのかもしれません。とすれば、文系の国立大学の定員を減らし、理系の学部への改組を迫るあのやり方にも意味があるというものです。つまり、職業教育レベルの準高等教育は私立大学に委ねて、いずれはこれらの私立大学を「新たな教育機関」に変更していただき、生産性の高い(すなわち、安くて実効性の高い)教育をしていただきます。そして、できる限り限られた高等教育資源を生産性は低いものの、将来の可能性を大いに秘めた秘密の実験室に投資できるようにしよう、と。ここまでくれば、高等教育の無償化にだって意味は出てきます。

という誇大妄想的な考えが去来したかと思うと、こんな日本を支える偉大な方々の遠大な思考には全くついていけないと考えるに至り、憲法9条という十字架を下げながらお国のために尽くしている自衛隊の皆さんに敬意を表しつつ、私といえば、せいぜいお肉のために戦おうと心に誓う本日であります。